宮城県気仙沼市。
太平洋岸で、まぐろ他 豊かな漁場と美しい海があります。
1キロの美しい砂浜と、海に最も近い駅のある海水浴場がある、地域内外に愛される場所でした。
その美しい海が、12年前、東日本大震災の津波で、大きな大きな被害を受けました。
今、東北の太平洋岸に行くと、ほとんどの町が 海が見えません。
どこの海にも、防潮堤がそびえ立っていて、海がみえない町になってしまっているところがほとんどです。
気仙沼だけでも何十もある浜に次々とそそり立ってゆく防潮堤。
海と暮らしが分断することなんて考えられないくらい、海とともに暮らしてきた気仙沼・大谷地区の人々。
いのちを守るために、津波によって流されてしまった砂浜の場所に防潮堤を作るという国からの提案を前に、当初は意見も分かれる中、防潮堤を作る・作らないよりも共有することができる地域の価値観として導き出したのは、「砂浜を守るということ」。
その共有できる価値観を握り続け、分断をせず信頼をつなぎ続けることで、国も行政も動かしていった、10年の記録のお話を三浦友幸さんに伺いました。
震災当初の避難所では、皆が自分のことより人のことを気にかけ、みんなが同じ方向を向き、「人ってこんなに一体になれるのか」と言うほどの満たされた充足感に包まれたといいます。
でも、二週間くらいして、物資も届きはじめると、だんだん自分の方に目がむきはじめると、揉め事が起こってくる。避難所同士が対立していったり。そんな中で「集団心理」のようなものを学ばれたと言います。
津波で流されてしまった砂浜をあきらめて、防潮堤がそびえ立つ計画が国から示されて、当初三浦さんは「反対運動をしよう」と思って、署名活動からはじめられたそうです。海と分断された暮らしなど考えられなかったので、防潮堤は作ってほしくないと思っていたから。それがほぼはじめての社会活動でした。
家を失くしてしまった人は、防潮堤はいらないという。
かろうじて家が残っている人は、早く防潮堤を作ってくれという、、、それぞれの思いと意見があり、分断はだんだん大きくなってゆきました。
その中で、皆で共通している思いというものがだんだん見えてきます。
「砂浜を残したい、、、」
それぞれの浜地区の中で、一人でも防潮堤を作ってほしいという人がいれば作らなければいけないという中、いろんな人に話を聞いていくうち、「より多くの人に賛成してもらう」という思いが前面に出てきて、署名の文面も、反対する署名から、より多くの人が賛同できる、共感できる内容に変化してゆきます。
中立性が担保されてくると、自治会全体を含む連合会での動きとなります。
防潮堤に賛成の人も反対の人も共有できる署名と要望を導き出すことで、行政の動きも変わってきます。
住民総意としての要望を出し、それを受けた市長や地方行政は、その要望を受け取り実現するために国や国の行政機関にはたらきかける、、、住民と地方行政の共同作業がここで生まれます。
共同作業をすると、少しだけ信頼関係が増す。少しずつ隙間を埋める。信頼の薄い膜を張ってゆく。
意見が同じでも、信頼がないと話し合いはできないのだな、とも思われたそうです。
だんだんに、防潮堤に関わる人たちの輪が大きくなる中、よりステップアップにつながった「防潮堤を勉強する会」。4ヶ月で13回開かれた勉強会は、気仙沼の企業経営者や商工会が中心となり、中立的な立場を貫いて 各分野の専門家を開いて開催され、延べ2500人以上の方が参加したといいます。
この勉強会をすることで、市民が 行政と対等な立場で意見や案を出すことができる市民力が醸成されていき、市民レベルが上がれば行政レベルも上がる、ということが起こっていきました。
そうして討議と交渉を重ね、震災から10年目の夏、絶対に動かせないと言われていた国道は防潮堤の高さにまでかさ上げされ、海が見える、そして地域が一丸となって守りたかった砂浜も再生された、未来世代に引き継ぐ新生・大谷海岸と防潮堤、道の駅(JR-BRT線駅も兼ねる)が完成しました。
締めくくりのことばは、「合意形成は波」という言葉でした。
合意形成の話のようで、気仙沼の防潮堤建設をめぐる10年の記録のお話のようで、私たち一人ひとりの人生のいろんな場面でヒントになるキーワードがそこここに散りばめられた、珠玉の会となりました。
三浦さん、本当にありがとうございました。
.