京都府の日本海側に、与謝野町という人口2万人ほどの静かな町があります。
この町は、未来世代幸福法がはじまったウェールズの、アベリスツイスという町と友好都市の協定を結んでおられるご縁で、同じ京都府内に暮らすKIRA_Activismが表敬訪問させていただきました。
山添町長はじめ、与謝野町の職員のお二方にもご同席いただき、未来世代幸福法のお話しをさせていただいたり、山添町長からも 与謝野町の取り組みや、与謝野町のこんなところが好きなんだよってお話を伺ったりしました。
ふだんから、その場所、フィールドに出かけて行って、その場所の空気に触れ、土を踏み、その方の場所で出会わせていただくことを大切にしているきらは、お会いする2時間ほど前に与謝野町に到着して、少し町を散歩したり、車でぐるっと回ったり、図書館で 町のことを少し調べたりしてから町役場に向かわせていただきました。
与謝野町の印象を一言でいうと、、、「静かな暮らし」。
賑やかしい観光地などはないけれど、静かで穏やかな空気が流れる場所だなぁと感じたのですが、山添町長とお話しする中で その第一印象は確信に変わり、丁寧な町づくりと町政は、未来世代幸福法で願う町づくりが、すでにそこにある親和性を共有できたように感じています。
人口2万人の町で、のべ2000人もの町民の方が参加して町の総合計画を作られたり、地域のみらいの姿を考える 地域と行政との対話を実施されていたり、中小企業振興基本条例があったり、1人の住民からの提案で事業化に踏み出したホップ栽培は、軌道に乗り美味しい地ビールが生まれたりしています。
また、自然循環農業を掲げる与謝野町では、畜産業がない中、豆腐をつくる際に出るおからを利用した堆肥づくりを、町の事業としてやっていて、ミネラル豊富で安全な堆肥として、町の農業を支えています。
https://agricycle.jp/fertilizer/
与謝野町では、ウェールズとの友好関係の中で、毎年高校生同士の交換留学の制度があり、2週間ほど滞在するプログラムが、もぅ20年以上も続いているようです。
ウェールズと与謝野町の関係は、第二次大戦時に遡ります。
京都の日本海側というと、第二次大戦当時 主にシベリアに抑留されていた日本兵が、戦後舞鶴港に帰還し、舞鶴の方達がとてもあたたかく迎えられた抑留記念博物館をかつて見学したことがあったのですが、抑留は日本兵ばかりでなく、連合軍の将兵も、日本の東南アジアから西太平洋の占領地域で35万人も捕虜にされていたとの歴史を、私は今日まで知りませんでした。
京都府与謝野町とウェールズとを結ぶきっかけとなった、フランク・エバンスさんは、現在の与謝野町と友好都市の協定を結んでいるアベリスツイスのご出身で、第二次大戦の最中、1941年(昭和16年)12月の香港の戦いで日本軍の捕虜となられたそうです。
香港で捕虜の身となったあと、日本の戦況が悪化してくると、どんどん日本の若い青年が戦争に駆り出され、男手がなくなっていったため、労働力として4万7千人もの連合軍側の捕虜が日本に送還されました。
輸送船の撃沈などで、1万1千人もの捕虜が命を落とし、日本までたどりついた連合軍側捕虜として、強制労働が課せられました。
昔 与謝野町では、ニッケルが採掘されていたそうで、フランク・エバンスさんはニッケル鉱夫として与謝野町で抑留労働させられました。
昭和20年に戦争が終わり、ウェールズに帰還できたあとも、長く神経症に苦しまれたとのことですが、長い長い年月を経て、35年ほど経った昭和56年に回想録を出版。そして昭和59年には、抑留されていた香港、そして京都へ旅をされたそうです。
長い年月を経て、憎しみを超えて「ゆるすことはできるが、忘れることはできない」とのことばが残っています。
偶然、飛行機で隣り合わせて座ったという数奇なご縁の触れ合いの中で、日本軍と戦って亡くなった連合軍犠牲者のリストの中に、友人だった方の名前を発見し、日本の企業や自治体の協力もあり、追悼の石碑が、かつてのニッケル鉱山跡近くに立っています。
エバンスさんの40年におよぶ憎悪と和解の手記は、日本語でも書籍が出版されています。
戦争という悲惨な歴史を超えて、許しあう気持ちを丁寧に紡ぎ合う与謝野町とウェールズの歴史と、今も続く友好の取り組みに、たくさんの学びを得た思いがします。
未来世代幸福法というウェールズで生まれた法律のこともお伝えできたことで、与謝野町とウェールズのつながりが、また一回り幹太くなるといぃなと願い、ウェールズ未来世代幸福法のエッセンスが、与謝野町を 今までよりももっと、より幸福な未来が、次の世代に引き継がれてゆきますように。
そして、もぅ二度と戦争という悲惨な歴史をくりかえしませんようにという思いを、強くしました。
ウェールズ駐在事務所からご連絡をつないでいただいてから今まで、丁寧な連絡を取り次いでくださった企画財政課の廣谷さんが、わかりにくいかもしれないからと、追悼碑の場所までご案内いただき、横にある道の駅で、与謝野町のお野菜や、地ビールをお土産に買いました。
山添町長によると、与謝野町がいいな!と思うところは「公共性と自立性」。
人口2万人の与謝野町で、登録されてる事業所は1500もある。
自分の力で自分の人生を切り開いていくという人の割合が多い。
一方で、絹織物の町でもある与謝野町で、夏場の絽や紗の織物の技術を開発されたのは、ある絹織物工場の番頭さんだった方。
店主は、この技術を持って独立しなさいと。
会社に利益や技術を独占するのではなく、地域に技術を広げていくために貢献しなさいと。
独立された番頭さんは、この技術広く広め、街に貢献されたそうです。
そんなふうに、一人一人が立って生きていけるよう、技術や利益を独占せず、分け合い伝承する気風を受け継がれている、与謝野町の人びと。
大好きな町が、またひとつ増えました。
そして、未来世代幸福法が、こうして少しずつ、日本の地方行政に浸透していく。
幸福な未来が、つながってゆきますように。
■京都府与謝野町WEBページ
https://www.town.yosano.lg.jp/
■山添町長インタビュー記事
https://publab.jp/2022/09/26/4555/
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